四天王寺「聖霊会(しょうりょうえ)」
エッセイスト・帝塚山大学講師 中田紀子
古代は神州の国であったわが国が、仏法を受け入れるか受け入れないかで争っていた6世紀後半、そのころの上町台地は難波の津と河内湖を切り裂くように南から北へ長く伸びた半島の形状をなしていた。6世紀も終わろうとする頃、半島の中ほど西寄りに一つの寺が造立された。四天王寺である。
推古天皇の甥にあたる聖徳太子が崇仏を唱える蘇我馬子とともに兵を率い廃仏派の物部守屋討伐に戦勝したことを祈念して造立されたのが四天王寺の起源という。
四天王寺で最も大事な行事「聖霊会」は、本来は聖徳太子の命日(旧暦2月22日)に行われていて、かつては「寒さの終(はて)も聖霊会(おしょうらい)さん」と呼ばれたくらい大阪の庶民に馴染みが深く、季語の役目も果たしていた。しかし現在は毎年4月22日に催行されている。「聖霊会」の法要は伽藍の北にある六時堂に仏舎利と聖徳太子の御霊をお迎えして催行される。六時堂で法要を行われている間、堂の前の石舞台では雅楽(ががく)や舞楽(ぶがく)が途切れることなく奉納されるのが特徴である。
石舞台上では「総礼伽陀(そうらいかだ)」がすむと、六時堂内では聖徳太子がお目覚めする儀式「御(み)上(じょう)帳(ちょう)、御(み)手水(ちょうず)」がとり行われ、同時進行で石舞台上では目覚めを慰める「蘇(そ)利(り)古(こ)」が舞われ佳境に入っていく。
演目が進み夕方に近づくと定番の「太平楽」が舞われるが、舞の途中で舞人が太刀を抜くのを合図に、六時堂内では聖徳太子の御影が巻き上げられ、御霊は再び眠りにつかれるが、参詣人のほとんどは聖徳太子が還御されたことに気付かずに、法要の主要部分が終りを迎える。
舞われる舞楽には、左方の唐(とう)楽(がく)と右方の高麗(こま)楽(がく)があり、唐楽は中国大陸からのもので赤系統の衣装、高麗楽は朝鮮半島の国々から伝来したもので緑系統の華麗な装束をつける。
聖霊会の法要に舞楽や奏楽が行われるのは、太子が「三宝の供養には、この新しい外国の音楽や舞を用いよう」と言われたのに始まると伝わる。
聖徳太子が取り入れようとしたグローバルな知識は、後の奈良朝で大きく花を咲かせた。日本人の海外から新進の文化を取り入れようとした進取の気質は、聖徳太子によって芽生え、現代にまで受け継がれてきたといえるだろう。
【日 程】平成23年4月22日(金)
【会 場】四天王寺 石舞台上
(※平成23年は雨天のため、本来は石舞台で行われる舞楽等はすべて六時堂で行われた。)
蘇利古(そりこ)
菩薩
迦陵頻(かりょうびん)
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