玉出・生根神社「だいがく祭り」(宵宮七月二十四日・本祭二十五日)
エッセイスト・帝塚山大学講師 中田紀子
「だいがく」とは、一本の竿に多数の提灯を吊るした巨大な「出し物」(たて物)のこと。
その起源は、平安時代初期にさかのぼる。社伝によると、第五十六代清和天皇(858~875年)の時代に、難波一帯が旱魃(かんばつ)の災害に遭い、苦しんだ農民たちが、住吉の竜神、大海神社の前で日本六十六ヶ国の一の宮の御神燈を六十六張りと鈴六十六個を付けた高さ十八間もの櫓を建てて、雨乞いの祈願したところ、たちどころに、大雨が降ったので農民たちは喜び、櫓に台を付け舁(か)き、太鼓を鳴らして氏地を巡行したのが始まりという。
このように「だいがく」はもともと神社の祭りとは関係なく、各町の持ち物であり、毎年決まった月日の出し物でもなく、雨乞いの時をはじめ、何か大きな喜びのあった時に出すものであったという。
その昔、玉出に十四基あったといわれ、明治初年には六基に減り、さらに五基となる。
その後変遷を経て、現在は生根神社の一基のみとなった。これは祝賀行事で岡山に貸し出されて戦災を逃れたもので、昭和二十七年に神社に戻り復興。
地車(だし)の高さ約二十メートル、重さ四トンで百人の担ぎ手が必要とされたが、現在は、交通事情や保存などの理由で、境内に置かれるだけになった。
二十五日の本祭の日、午後より「神輿渡御」が町中を巡行。午後六時頃、古老の朗々たる「だいがく音頭」に合わせ、「子供だいがく」の太鼓と小学校高学年女子らによって「だいがく踊り」が奉納される。若衆の「だいがく太鼓」も競演すると、境内はたちまち家族連れで活気を帯びてくる。奉納行事が終わると場所を、少し離れた玉出西公園に移して午後十時頃まで「だいがく祭り」のフィナーレを飾る。伊勢音頭の影響を受けたテンポのよい「だいがく音頭」が始まると青年男子が担ぐ高さ十一メートルの「中だいがく」と、それより一回り小さい「ギャルだいがく」の共演が始まり、熱気に包まれる。提灯に明りを灯した「だいがく」が公園の中を練り歩く。ほとばしる汗が光る。闇に響く太鼓の音と〝サーヤリーエー、ヨイヨーイ〟の担ぎ手の掛け声。観客は、〝ヨーヨー〟とはやしたて、大きな拍手を送る。
古老は言う、「夜、だいがくに灯が入ると心がおどってじっとしてられなかったものですよ」。また、担ぎ手の青年は「小さい時から祭りはあこがれ。見るだけだったが高校生になって参加出来て、大人の仲間入りをしたような気分だった。祭り大好き!」と、笑顔がはじけた。
「玉出だいがく」は昭和四十七年に大阪府の有形民俗文化財の指定を受ける。これを機に「だいがく保存会」を結成。現在、神社の氏子地域は玉出、岸里、千本の三地区であるが、こうした地元の人たちの口伝えで祭は広がり、喜びを分かち合う。祭事により培われた地域内の連帯意識は日々の暮らしの中で活かされている。
(*「だいがく」については、『生根神社「だいがく祭り」調査報告書』を参考にした。)
| 固定リンク
コメント