三光神社(7/19,22,23)
大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し、昔は姫山神社、今は三光神社と称されている。 創建は、第十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ、武川氏(武内宿弥の末裔)が神職として奉仕され、今に至ると言われる。
当神社は古来より日本全国で唯一の中風(脳梗塞)除の神として広く知られ、毎年、6月1日~7日まで中風除け祈願大祭(茅の輪くぐりの神事)が執り行われる。
また、境内は桜の名所として知られ、毎年4月上旬は桜見物で賑わう。 各社殿を初め建物一切は、昭和20年6月1日に全焼したが、戦後、氏子崇敬者により、4期にわたって、本殿、社務所、大鳥居などが復興された。
<ご祭神>
天照大神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)
<末 社>
仁徳天皇社
武内宿弥社
武内宿弥は、景行天皇から仁徳天皇までの五朝(244年間!)にわたって大臣を歴任し、長寿の人ということで、七福神の寿老神<写真8>と同一視され、祀られている。
野見宿弥社
野見宿弥は、麻邑蹶速(たいまのけはや)という輩を一撃で破ったという、角力の神様で、また、当時高貴な方がなくなるとその近臣も共に埋める風習を、土人形を造り人間の代わりにすることを考案された。(埴輪の起こり)。
稲荷社
享和3年(1803年)に「今年七福神巡拝発起」とあり、その4番が、寿老神眞田山いなり社(現三光神社)であった。その後途絶え、大正3年に「浪速七福会」が復興し、その後、大阪七福神社寺会」により現在に至る。
<境内地の名所>
太平洋戦争の大阪大空襲により、大鳥居が破壊され、その片柱のみをとどめた。戦後この鳥居の復興に際して、平和を祈願し、この片柱を後世に残すこととした。この片柱には、大相撲の関取の名前(陣幕久五郎、不知火など)が刻まれている。
大阪冬の陣の頃、真田幸村が大阪城からここに至るまでの地下道を設けたと言い伝えられている。
昭和62年に建立され、その台座には、長谷寺(真田家の菩提寺)より取り出した真田石が置かれている。
◇夏祭りの由来など◇
今年は、7月19日(祝)に子供神輿の巡行が執り行われた。
小さな子供たちとその父母らが和気あいあいと子供神輿を引っ張っていく様は、真に微笑ましい。夏祭りは江戸時代中期には行なわれていたらしく、戦前までは氏子を中心により盛大に行なわれていたが、大阪大空襲により付近一帯が全焼し、戦後その担い手がいなくなってしまった。現在は、地域の自治会らが中心となって行なわれている。
三光神社およびその周辺には、片柱の鳥居、旧陸軍墓地、真田の抜け穴など、数々の戦争遺跡がある。更に宮司から戦争時のお話も聞かせていただき、戦争について深く考えさせられた。以下、宮司から聞かせていただいたお話です。
「戦前は、当神社において、小学生による教育勅語の斉唱が行なわれ、陸軍墓地の管理も任されていたが、戦争が終わって様相が一変した。B29の空襲で神社も氏子の家も全焼したので暫く疎開していたが、帰ってみると、焼け残った石灯篭なども全て、日本人!によって壊されていた。意外に、米兵は一人も神社にやって来なかった。」
神社は、戦前は天皇制中心の体制に組み込まれていたが、戦後はGHQにより解体され、その地位が崩れてしまったらしい。米兵が来なかったのは、GHQが神社(神道)の影響を恐れたのか、それとも日本国の「神道」を尊重したのか?
旧陸軍墓地については、資料によると、西南の役、日清・日露戦争、太平洋戦争で戦死(病死)した陸軍将兵の墓標が約4,800柱あり、遺骨安置所には約4万3,000体の遺骨が眠っているとのこと。将校・下士官クラスだけではなく、兵卒(二等兵など)、軍属の墓標や、ドイツ兵(第一次世界大戦)、清国兵(日清戦争)の墓標もあるのが、陸軍墓地として非常に珍しいらしい。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)の舞台にもなっているらしく、近年は、片柱の鳥居も含めて、見学コースとして三光神社を訪れる人が多く、宮司も「復興時に壊れた鳥居を残しておいて良かった。」と仰っておられた。
また、真田の抜け穴については、「大阪城の周りは掘によって守られていたが、唯一南側にはなかった。そこで、大阪冬の陣の際、南側に空堀(今の空堀商店街?)を掘り、豊臣方はその北側に陣を構えた。空堀の南側に真田幸村が出城を構え、この抜け穴は、その連絡通路として使ったので、大阪城までは通じてなかった。」らしい。
◇開催日◇
7月19、22、23日
◇開催場所◇
宵宮、本宮 三光神社境内(大阪市天王寺区玉造本町14番90号)
子供神輿巡行 三光神社周辺
◇2010年度スケジュール◇
7月19日(祝) 子供神輿巡行
7月22日(木) 宵宮
7月23日(金) 本宮
◇交通アクセス◇
JR環状線 玉造駅 下車西南300m
地下鉄 玉造駅 下車南50m(2番出口)
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