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2010年9月22日 (水)

難波八阪神社(7/12、13、14)

◇ 神社について◇

 難波八阪神社は古くは難波下の宮と呼ばれ、創建は定かではないが、後三条天皇の御代延久の頃には既に祇園牛頭天王(ぎおんごずてんのう)を勧請する古社として世に聞こえていた。

 もとは神仏混交であったが、明治5年(1872年)の神仏分離により、郷社となった。当社の祭神、素戔鳴尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治された故事に基づき始められたという綱曳神事は、「摂津名所図絵」や「摂津名所図会大成」にも紹介されており、平成13年(2001年)、大阪市で初めての無形民俗文化財に指定された。

 現在の社殿は、昭和49年(1974年)5月に改築され、絵馬殿は大きな獅子頭をかたどるユニークなものである。(高12m、幅11m、奥行10m)

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<ご祭神>

 素戔鳴尊(すさのおのみこと)、
 奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)
 八柱御子命(やはしらみこのみこと)

<摂社・末社>

 篠山神社(地元の代官・篠山十兵衛景義が祭られている。)
 稲荷神社
 三宝荒神社
 市杵島姫神社
 皇大神社

◇夏祭りの由来◇

 江戸時代には、道頓堀川船渡御は、大阪天満宮の天神祭と並び盛大に行われていたと伝わっているが、江戸時代中期以降に一旦途絶え、21世紀になって(2001年)、平成氏子や地元企業の支援により230年ぶりに復活した。

◇感想◇

<社殿>

 境内に入ると、まず圧倒されるのが、獅子頭をかたどった絵馬殿です。グワッと開いた口の中が舞台になっていて、祭りにはここで獅子舞などが催されます。宮司様に聞いてみると、「以前は、祭りのたびに仮設の舞台を作り、祭りが終われば取り壊していたので、それでは非効率ということで、常設の獅子舞用の社殿を造った。」との答えでした。
近くの子供らは、「親の言うこと聞かんかったら、噛んでもらうでえ」と、脅されてるんでしょうね。

<船渡御>

 道頓堀の船渡御を見てきましたが、それは見事!なものでした。以下、見学記です。
戎橋から階段で「とんぼりリバーウォーク」に降りると、2隻のどんどこ船(手こぎの船)が、すでに太座衛門船着場の手前両岸に横付けされていました。

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 そこに、湊町から次々と船がやってきます。神事船は篝火(かがりび)船や雅楽船などが古式ゆかしく、一方、協賛船は派手なデコレーションに、芸人やジャズダンスのギャルを乗せて、いかにもミナミらしいノリでやってきます。「あるとき~ないとき~」のブタ饅屋さんや、新世界の串カツ屋さんなど。

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そして、どんどこ船の前で、「大阪締め」が行われます。
「打ーちまひょっ」パンパン!「もひとつせっ」 パンパン!「祝うて三度っ」パンパパンパン!どんどこ船の鐘に合わせて、どんどこ船の若集、観光客も含めて一斉に手拍子が道頓堀にこだまする、その一体感が素晴らしい!あんまり気持ちいいので、最後の舟が来るまで、10回以上大阪締めに参加しました。

8_3  「とんぼりリバーウォーク」ができたお陰で、船と観客との距離が非常に近くなり、漆黒の闇のなかで、道頓堀のネオン、船、それをとりまく観客との空間が、まるで劇場の中にいるようでした。

◇開催日◇

 7月12、13、14日

◇開催場所◇

<宵々宮、宵宮、本宮>

 12、13、14日   難波八阪神社境内

<船渡御>

 12日 (午前中)     道頓堀川(戎橋~太左衛門橋)
     (18時~21時) 道頓堀川(戎橋~太左衛門橋)

<陸渡御>

 13日  千日前~道頓堀~戎橋筋 
 14日  堀江周辺   

◇2010年度スケジュール◇

 12日  宵々宮 船渡御・
 13日  宵宮
 14日  本宮 陸渡御

◇交通アクセス◇

 地下鉄御堂筋線なんば駅(5番出口) 西へ直進10分
 地下鉄四つ橋線大国町駅(32番出口) 南へ直進5分

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三光神社(7/19,22,23)

◇神社について◇

5_4   大阪城東南の丘陵(上町台)真田山に鎮座し、昔は姫山神社、今は三光神社と称されている。 創建は、第十八代反正天皇の御宇と言い伝えられ、武川氏(武内宿弥の末裔)が神職として奉仕され、今に至ると言われる。

 当神社は古来より日本全国で唯一の中風(脳梗塞)除の神として広く知られ、毎年、6月1日~7日まで中風除け祈願大祭(茅の輪くぐりの神事)が執り行われる。

 また、境内は桜の名所として知られ、毎年4月上旬は桜見物で賑わう。 各社殿を初め建物一切は、昭和20年6月1日に全焼したが、戦後、氏子崇敬者により、4期にわたって、本殿、社務所、大鳥居などが復興された。

<ご祭神>

 天照大神、月読尊(つくよみのみこと)、素戔鳴尊(すさのおのみこと)

<末 社>

仁徳天皇社

武内宿弥社

 武内宿弥は、景行天皇から仁徳天皇までの五朝(244年間!)にわたって大臣を歴任し、長寿の人ということで、七福神の寿老神<写真8>と同一視され、祀られている。

野見宿弥社

 野見宿弥は、麻邑蹶速(たいまのけはや)という輩を一撃で破ったという、角力の神様で、また、当時高貴な方がなくなるとその近臣も共に埋める風習を、土人形を造り人間の代わりにすることを考案された。(埴輪の起こり)。

稲荷社

大阪七福神8

 享和3年(1803年)に「今年七福神巡拝発起」とあり、その4番が、寿老神眞田山いなり社(現三光神社)であった。その後途絶え、大正3年に「浪速七福会」が復興し、その後、大阪七福神社寺会」により現在に至る。

<境内地の名所>

片柱の鳥居 9_2

 太平洋戦争の大阪大空襲により、大鳥居が破壊され、その片柱のみをとどめた。戦後この鳥居の復興に際して、平和を祈願し、この片柱を後世に残すこととした。この片柱には、大相撲の関取の名前(陣幕久五郎、不知火など)が刻まれている。

真田の抜け穴 

 大阪冬の陣の頃、真田幸村が大阪城からここに至るまでの地下道を設けたと言い伝えられている。

真田幸村の像 

 昭和62年に建立され、その台座には、長谷寺(真田家の菩提寺)より取り出した真田石が置かれている。

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◇夏祭りの由来など◇

<夏祭り>

 今年は、7月19日(祝)に子供神輿の巡行が執り行われた。
 小さな子供たちとその父母らが和気あいあいと子供神輿を引っ張っていく様は、真に微笑ましい。夏祭りは江戸時代中期には行なわれていたらしく、戦前までは氏子を中心により盛大に行なわれていたが、大阪大空襲により付近一帯が全焼し、戦後その担い手がいなくなってしまった。現在は、地域の自治会らが中心となって行なわれている。

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<感想、宮司のお話>

  三光神社およびその周辺には、片柱の鳥居、旧陸軍墓地、真田の抜け穴など、数々の戦争遺跡がある。更に宮司から戦争時のお話も聞かせていただき、戦争について深く考えさせられた。以下、宮司から聞かせていただいたお話です。 

 「戦前は、当神社において、小学生による教育勅語の斉唱が行なわれ、陸軍墓地の管理も任されていたが、戦争が終わって様相が一変した。B29の空襲で神社も氏子の家も全焼したので暫く疎開していたが、帰ってみると、焼け残った石灯篭なども全て、日本人!によって壊されていた。意外に、米兵は一人も神社にやって来なかった。」
 神社は、戦前は天皇制中心の体制に組み込まれていたが、戦後はGHQにより解体され、その地位が崩れてしまったらしい。米兵が来なかったのは、GHQが神社(神道)の影響を恐れたのか、それとも日本国の「神道」を尊重したのか?

 旧陸軍墓地については、資料によると、西南の役、日清・日露戦争、太平洋戦争で戦死(病死)した陸軍将兵の墓標が約4,800柱あり、遺骨安置所には約4万3,000体の遺骨が眠っているとのこと。将校・下士官クラスだけではなく、兵卒(二等兵など)、軍属の墓標や、ドイツ兵(第一次世界大戦)、清国兵(日清戦争)の墓標もあるのが、陸軍墓地として非常に珍しいらしい。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)の舞台にもなっているらしく、近年は、片柱の鳥居も含めて、見学コースとして三光神社を訪れる人が多く、宮司も「復興時に壊れた鳥居を残しておいて良かった。」と仰っておられた。

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 また、真田の抜け穴については、「大阪城の周りは掘によって守られていたが、唯一南側にはなかった。そこで、大阪冬の陣の際、南側に空堀(今の空堀商店街?)を掘り、豊臣方はその北側に陣を構えた。空堀の南側に真田幸村が出城を構え、この抜け穴は、その連絡通路として使ったので、大阪城までは通じてなかった。」らしい。

◇開催日◇

 7月19、22、23日

◇開催場所◇

 宵宮、本宮   三光神社境内(大阪市天王寺区玉造本町14番90号)
 子供神輿巡行 三光神社周辺

◇2010年度スケジュール◇

 7月19日(祝) 子供神輿巡行
 7月22日(木) 宵宮
 7月23日(金) 本宮

◇交通アクセス◇

 JR環状線 玉造駅 下車西南300m      
 地下鉄 玉造駅 下車南50m(2番出口)

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2010年9月13日 (月)

海老江八坂神社

◇神社について◇Cimg0848
 建立の時期は定かでないが、境内に天治(1125年頃)とも大治(1130年頃)とも読める灯籠があり、また、村の旧記に永徳三年(1383年)霜月社殿再建と書かれており、歴史ある神社であることが推察される。
 承応元年(1652年)には、氏子の先覚、道意翁が尼崎新田(道意新田)を開拓し、氏神として本神社の御分霊を奉遷し祀った(現道意神社)と伝えられており、御分霊を遷座する行列の様子が描かれた絵馬が今も尼崎の道意神社には保存されている。
 また、本神社には、元亀元年(1570年)織田信長が野田城の三好一党を攻撃の時、戦勝を祈念して奉納したという太刀が残っている。
 祭神は素盞嗚命(すさのお)。

(*本神社が八坂神社を称するようになったのは、明治時代の神仏分離令以降のことであり、以前は牛頭天王社と呼ばれていた。)
 

◇夏祭りの由来◇
 海老江八坂神社に残る、夏祭りの最も古い資料は享保(1716年~)の神社明細帳に記録で残っている。徳川八代将軍吉宗の時代は、各地で祭りが奨励されたこと、また享保から幕末にかけて飢饉・疫病が起こり、病退散を祈念して海老江でも夏祭りが盛んになった。

◇感 想◇Cimg0806
 7月18日、日中30度を超える真夏日のなか、阪神野田駅のバスターミナルから海老江八坂神社へと続く通りを地車のパレードが行われた。パレードは、「オッサ、オッサ!」という威勢のよい掛け声の中、北之町(白色)の枕太鼓を先頭に、西之町(水色)、東之町(黄色)、南之町(ピンク色)の地車がゆっくりと巡行する。枕太鼓は露払いを務め、続く地車は、土地をお払いする役割を持つ。地車の順番は、かつては、神社がある南之町が毎年最初に宮入Cimg0807りしていたが、今ではローテーション。
 通りの幅は狭く、地車の曳き子や沿道の人たちで溢れかえり、地車は今にも頭上に張り巡らされている電線に届きそうだ。地車の上では、炎天下にもかかわらず、2人の屋根方が囃子に合わせて元気に踊り、その生き生きした表情がとても印象的であった。周囲の観客からは、動く地車の上で逆立ちをするなど勇壮なパフォーマンスに拍手と歓声が沸き起こっていた。
 屋根方の由来を聞くと、屋根方ができたのは、実は電柱、電線Cimg0839ができてからのことで、地車が通りに面した家の軒先を削ったり、電線を引っ掛けたりするようになってから、屋根方を乗せるようになったという。
 囃子や踊りは、夏祭りの時だけではなく、年間を通じて練習をしているそうだ。囃子の回しは、かつて12種類ほどあったが、継承の過程で徐々に減り、現在では6~7種類だけが使われている。回しの名称は、水の都大阪らしく、いずれも橋の名前がつけられている。

Cimg0853 この日は、日中のパレード終了後、夜に宮入り。神社へ続く通りには、昔ながらの金魚すくいやスーパーボールすくい、リンゴ飴、たこ焼きなどの夜店が軒を連ねる。
 暗くなる頃には、パレード一行はすでに宮入りしており、境内は中に入ることができないほどの人だかりになっていた。囃子は、昼間よりもさらに賑やかさを増し、大勢の人に担ぎ上げられて大きく揺れる地車の上では屋根方が振り落とされそうになりながら、派手なパフォーマンスを繰り返し披露していた。周りの観客もすっかり熱気を帯びて興奮気味。ひとしきり盛り上がった頃、漸く祭は山場を迎えて、最後に盛大に金銀の紙吹雪が打ち上げられて終了となった。

 祭りが終わって潮が引くように人が散っていく中で、今回、最も印象深く思い返されたのは、祭りに参加していた人たちのパワーや、若者たちの真剣な表情である。また、老若男女を問わず、地元の大勢の人が参加しており、都会では失われつつある地域の人々の繋がりを祭りが育む貴重な機会になっているということを改めて実感した。普段、すっかり現代化した生活の中で暮らしていても、世代を超えて、今なお、こうして息づいている地域の祭りを、今後も大切にしていきたいものである。

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(夜の宮入の写真は平成9年。神社提供。)

◇開 催 日 ◇ 7月17日~18日

◇開催場所◇
  神社境内 福島区海老江六丁目4番地2号
  巡行    阪神野田駅バスターミナルから海老江八坂神社まで

◇2010年度夏祭りスケジュール◇
  7月17日 【宵宮】 子ども神輿 宮入       17:40~17:50
               少年の部   囃子競演   18:00~18:40
               パレード              18:50~20:30
  7月18日 【本宮】   パレード 15:30~16:00
         (宮入)             20:00~20:30(北之町)
                          20:30~21:00(西之町)
                          21:00~21:30(東之町)
                                           21:30~22:00(南之町)

◇交通アクセス◇
  JR東西線「海老江駅」より徒歩8分
  阪神電車「野田駅」より徒歩10分
  地下鉄「野田駅」より徒歩10分

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野田恵美須神社

◇神社について◇Cimg0890_3
 大阪湾が今よりもずっと奥深くはいり込んでいた頃、初めて野田の地に住みついた漁民の一団が、自分たちの信仰するエビスの大神を祀ったのが起源である。
 戦国時代には、大阪方面に勢力を伸ばそうとした織田信長に対抗した四国の豪族三好氏がここに城を築き、本神社は野田城の守護神として武士たちの信仰の対象となっていたと考えられている。
 祭神は、事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)、八幡大神(はちまんおおかみ)。

◇夏祭りの由来◇
 夏季に起こりやすい流行病を退散させるために行われた。戦前には渡御式、俗に「お渡り」といわれる神事があった。神を奉戴した御鳳輦(ごほうれん)、御神輿(おみこし)を中心として、先導の太鼓以下、行列を整えて新家の御旅所に赴き、祭典を斎行した後、再び行列をして本社に還る、という儀式であった。現在では、太鼓、地車、鯛鉾が氏子区域を巡行する祭りとなっている。

◇感  想◇Cimg0906_6Cimg0877_9
 野田恵美須神社は、太鼓、地車、鯛鉾がそれぞれ別々のルートを巡行する。
昔、野田村は6つの町に分かれており、うち1町が太鼓を、1町が神輿 を、他の4町が地車を持っていたが、老朽化にともない大正の中頃から廃止された。昭和6年、これを復活しようと、当時の4台に代わって1台の大きな地車を作ったのが現在の地車だそうだ。
 地車には、富山県井波出身の彫刻師川原啓秀氏により、大阪夏の陣・冬の陣などの豊臣一代記をテーマにした彫刻が彫られている。屋根周りから柱巻きまで、一面に施された精巧な装飾には驚かされる。まさに動く美術品である。川原氏は、昭和6年~12年にかけて神戸・大阪地域の地車彫刻製作した彫刻師で、後に、日光東照宮薬師堂欄間「鳳凰」なども製作している。

Photo 今回、夏祭りをレポートするにあたり、初めて「獅噛(しかみ)」という言葉を学んだ。 「獅噛」とは、「鬼板」とも言われ、地車の屋根に施されている獅子の頭を模様化した彫刻のことである。よく見ると、どの地車にも、丹念に彫られた獅子が屋根にかじりついている。ここの地車に限らず、さまざまな表情の獅子が彫られているので一度見比べてほしい。

  この神社でもっとも注目すべきは、関西では唯一ここにしかない鯛鉾である。「えべっさん」と聞いて連想するのは、やはり尾頭付きの鯛。 大きな鯛をかたどった鉾が神社の境内に鎮Cimg0886_4座しており、周りには、青龍、朱雀、白虎、玄武の四神の旗が飾られていた。
 この地域には、国内外からの食材が集まる全国2位の卸売市場、大阪中央卸売市場本場があるほか、野田阪神本通商店街や新橋筋商店街など昔ながらの商店街が多くあり、地域の人々の生活に、商売繁盛祈願は欠かせない。真っ赤な大きな鯛は見るからにめでたく、来年は、巡行しているところを一度見てみたいものである。

◇開 催 日 ◇ 7月19日~20日

◇開催場所◇
  神社境内 大阪市福島区玉川4丁目1番1号
  巡行地域 大阪市福島区の玉川、野田、吉野、大開、新家

◇2010年度夏祭りスケジュール◇
  ■7月19日(祝) 宵宮祭 18:00
    地車 宮出 11:15   宮入 21:00 
    太皷 宮出 11:30   宮入 20:10 
  ■7月20日(火) 本宮祭 10:30
    鯛鉾 宮出 12:30   宮入 19:00
    太皷 宮出 13:00   宮入 20:30
    地車 宮出 13:30   宮入 19:50
    すずめ踊り奉納    19:20~19:40

◇交通アクセス◇
  大阪市営地下鉄千日前線「玉川駅」より徒歩5分
  JR大阪環状線「野田駅」より徒歩7分
  阪神電車「野田駅」より徒歩10分
  京阪電車「中之島駅」より徒歩10分

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